【SF考証】カメラの未来

カメラの進化

前回はカメラの進化について考えた。 カメラは生活を常に記録するだけでなく、その情報をシェアすることで、もはや個人が意図的にシャッターを切る必要もなくなると考えた。 膨大な映像・写真を保存し、任意に検索して引き出し、加工する技術がそのような未来を実現すると思われる。 また、個々人がカメラを携帯しなくとも、好きなシーンでの写真を現地で撮影できる環境が、ロボットとVRの技術で実現されるとも予測される。

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カメラの未来

ではプロユースのカメラの未来はどのようなものなのか? 現代では少なくとも数十万円ほど投資することで、素人目ではプロと遜色ない映像や写真が撮影可能だ。 だが、プロ所以たるところは、その技術とセンスであり、構図や間のとり方である。 いわゆる芸術的センスが写真と映像を価値のあるものにしている。

だが、センスと呼ばれている技術は、現在の機械学習技術によってAIが学習し、一部の分野でAIがそのセンスを発揮することが可能になっている。 人間だけができると思われていた、多数の情報をもとにした直感は、むしろAIが得意とする分野であることが近年では分かってきている。

だが、カメラにおいて良い構図の写真や映像を取るには、時間や天候、アングルや場所など、細かな条件の合致が必要であり、探索と試行、忍耐を要する。

AIによるアシスト

ロボットが自らの意思を持って撮影することは、未来になってもなかなか難しいと思われる。 そもそも映像や写真自体が、人間の意思と感情を発露させる目的で行われるため、意思のない機械に撮影自体の目的を与えることは難しい。 だが、AIには撮影されている映像が、人々の心に訴えかけるかどうかを予測することは可能だろう。あくまで過去の記録をもとにした予測だが、概ね現在時点で役に立つだろう。

そこで考えられるのが、AIによる撮影評価、もしくはアシストである。現在写しているものが、心に訴えかけるものかの評価とともに、どう調整すればよいかをアシスト、可能であれば自動で補正を行う。 画像の補正はAIに可能だが、アングルの修正、立ち位置の変更は難しいため、人間へアドバイスを行う形になるだろう。

現在でも写真の有名なスポットには人々が多数集まるが、そのようなスポットの予測と提案をすることも考えられる。 立地、環境、天候、時間帯におうじて、ドラマチックな瞬間が訪れる条件を予測し、その地点を提案することも考えられる。

そこまで予測が可能であれば、ドローンによる自動飛行によって、自動的に映像の収集も可能になるかもしれない。 カメラマンは、現地に赴いてドローン(陸用、空用)を起動して、あとは自動で映像を収集してくるのを待つ間に、従来通り人間が行う撮影をこなすだけになるかもしれない。 そうなれば、撮影スタッフの数を抑え、全体のコストを抑えることができる。 もしくはそのようなロボットの貸出を行うスタジオが全世界に点在し、予約を行うことで目的に応じたロボットを出動させて、映像を遠隔で収集可能になるかもしれない。

より未来での写真と映像

”現地で撮影された映像・写真”が価値を持つことにはなるだろうが、それ以上に映像と写真自体の真偽がより判定不能になるだろう。 映像や写真には暗号コードが必要となり、実生活において本物と偽物の区別は重要にはなるだろう。 同時に、娯楽にとってはこれ以上ない進化であろう。

【SF考証】カメラの進化

現代のカメラ

カメラはフィルムカメラデジタルカメラと進化し、推移してきた。 そして、現在はスマホのカメラが全世界のカメラの圧倒的総数を誇る。

スマホのカメラ機能は、スマホ自体と一体化しており、もはや、カメラの定義自体が揺らいでいるとも言える。 レンズの性能自体は、ハードウェアの限界ゆえに従来のカメラに劣るが、 ソフトウェアによる改良によって、そのハードウェアの垣根を超えるまでの出来栄えを誇ることも可能である。

カメラの役割と需要

先進国においては、現代はほぼすべての人間がカメラを手にしているといっていい。 しかも、どの場所にも携帯可能な形で持っている。 これによって、個人の生活の記録だけでなく、報道の手段にもなっている。 SNSの普及もカメラの需要を支えている。

そのような需要のもと、カメラに求められているのは、性能や写真の美しさよりも、構図やシチュエーション、写真自体の意外性のほうが重要視されているとも思える。 また、ドローンの性能向上と普及によって、現代の映像作品ではドローンによる空撮は欠かせないものになっている。 これはカメラ自体の性能や小型化の恩恵とともに、そのほかの周辺技術の発達による相乗効果といえる。

ただし、これらの技術によって撮影されるものは、全く新しいものではなく、 従来では大規模で高価な機材、人材が必要だったものが、より安価で手軽に、個人レベルでも可能になったことが重要な点でもある。 つまり、カメラの役割自体はまだそれほど変化はしていないとも言える。 今後、全く新しいカメラの用途、需要が生まれる可能性があるのか?

カメラの未来を変える要素

カメラの未来を支える要素は以下のように捉えられる。

  • 性能
    • 画質、画角、ISO感度、フォーカス速度など
  • 小型化
    • センサ、レンズ、モータの小型化
  • 用途
    • 記録、報道、創作、調査・探索など

カメラの未来を今後支えていく技術は以下のものが考えられる。

  • センサー技術
    • ハードウェアの進化、センサ素子
  • 情報処理技術
    • 画像処理技術、AI技術(認識、合成、補正、変換)
  • インフラ、通信技術
    • SNSなどのサービスインフラ、5Gなど通信の高速化
  • ロボット技術
    • ドローン、探索ロボット

100年後はどうなる?

■主観的なカメラ(携帯するカメラ)

個人レベルでは、基本的にすべての生活を映像で記録する。 必要なシーンを明示的に記録する際は、その場で操作するか、あとから生活のそのシーンを検索するようになる。 ハードウェアはメガネ型が最も一般的だが、ペンダント、首輪型などがある。

この技術を支えるのは、カメラの進化だけでなく、通信の進化、サーバーインフラの進化、検索技術の進化がある。 特に映像、画像の検索が、AIによって可能になることで、撮りっぱなしで記録してあとから利用することが可能になる。 サーバー側は量子コンピューターの進化もあって、AIによる検索をさらに支えると思われる。

■客観的なカメラ(他人のカメラ)

客観的に自分の姿を写した映像を手に入れるための手段として、他人が撮影した映像を利用する方法もある。 これは検索技術を流用して、他人の映像からも自分を探索することが可能になるかもしれない。

ただし、これは法整備も必要な技術である。相互に記録し、それを政府さえも利用できることで、 それがもたらすのは秩序なのか抑圧なのかは、判断が難しいところ。

■客観的なカメラ(身体を拡張するカメラ)

前述したようなウェアラブルなハードによる記録では、基本的には本人の身体を大きく超える形では記録ができない。 そのため、現在は三脚、自撮り棒、ドローンが利用される。 ドローンの進化によって、規制が難しいレベルでの小型ドローンが携帯可能になる。 そのため、個人による利用を抑制するために、観光地には現地で用意されたドローンが至るところで用意されており、必要に応じて操作、撮影が可能。 前述したサーバー技術によって、撮影した画像、映像は通信経由で手に入る。 専属カメラマンが同行するように、現地の飛行ドローン、歩行ドローンが必要に応じて写真を撮ってくれる。

■ヴァーチャルなカメラ

画像処理技術が進化することで、もはや誰もその真偽がわからないレベルでの合成写真が可能になる。 本人が現地に行かなくても、自分の3Dモデルと現地のモデルを利用することで、いつでも写真が作成可能になる。 つまり、現地で大変な思いをして、アングルの凝った写真を残す必要はほぼなくなり、旅の体験自体に集中できるようになる。 きれいな映像はあとから作ればよくて、現地に赴いた体験や実績が重要となる。

最後に

カメラに限らないが、カメラ以外の周辺技術によって、カメラ自体の立ち位置が変化すると思われる。 今回はカメラというハードウェアの進化というより、撮影自体がどう変化するのかに焦点があたる形となった。 個人の手に行き渡ったカメラが、今度は全体で管理される形となり、個々人がカメラを大きく意識することはなくなっていくのではないかと推測する。

【幸せになる勇気】青年と哲学者との対話の物語としての面白さ【書評・レビュー】

前作「嫌われる勇気」からの続編

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

「幸せになる勇気」は前作の「嫌われる勇気」からの続編であり、実践編でもあります。 前作ではアドラー心理学の基本部分、その思想を学ぶことができました。 今作ではアドラー心理学をいかに実践していくのかについて、その具体的な指針を導きます。

青年との熱く激しい対話

この作品は、あるアドラー心理学を学ぶ哲学者のもとに訪れた青年との対話形式で行われます。 青年は常にアドラーに対して疑念を抱いており、その思想への疑問を憚ることなく哲学者へと向けます。 その対話のなかで、我々も同じく疑問に思う部分が解決されていくため、非常にわかりやすく読みやすい、そして飽きない内容になっています。

前作で青年はアドラーの心理学を学び、その思想に共感・感化して、自らの人生を生きることを決意しました。

しかし、その3年後、再び哲学者の元を訪れた青年は、今作では一転してアドラーを批判します。 アドラーの心理学は、全く現実にかなったものではなく、ただの理想論で現場では全くの役にたたなかったと。

この作品の青年は少し攻撃的で、哲学者に向けても歯に衣着せぬ物言いです。 しかし、それはしっかりと論理だっており、単なる罵倒や批判ではありません。

今作では、その青年の物言いがますます激しいものとなっています。 おそらくあれほど希望の光に見えたアドラーの心理学を実践したら、現場では役にたたず、大きく裏切られたという思いも大きかったのでしょう。 アドラー心理学の現実で実践上での問題点を追求していきます。

教育としてのアドラー心理学

青年の悩み・問題は、アドラーの心理学を教育の場で実践しても、なにも問題が解決できなかったことです。 アドラー心理学に感化され、その思想を子供にも広めようと、教育者となった青年が、現場で”褒めず叱らない”を実践したところ、まったくうまくいかなかったのです。

哲学者が指摘した問題点は以下のこと

  • 青年が子供たちを1人の人間として”尊敬”していないこと
  • 子供たちの関心事に関心を寄せていないこと
  • ”これからどうするのか”を考えず、原因ばかりに着目している
  • 言葉でのコミュニケーション・問題解決を避け、暴力・怒りという手っ取り早い手段で他者を支配している
  • 賞罰によって子供たちの間に”他者は敵である”という競争原理を働きかけている。しかし、これはシステムの問題でもある

すこし荒くピックアップすると、以上のようになります。 これらの問題はアドラー心理学によって、それがなぜ問題なのかを解き明かします。

幸せになる勇気

教育に関する対話を進めていくなか、哲学者は青年の根本的な問題点を指摘します。 青年は”幸せになる勇気”を持ちえていない。 青年は、あくまで子供たちを救うことを通じて”自分が救われたい”だけである、と。 いわば承認の欲求にかられての行動であり、その先に本当の幸せは存在しない。 この部分を解決しなければ、教育に関する議論を行っても不毛でしかない。

ここで、前作から引き続いて”仕事”、”交友”、”愛”の人生のタスクの議論となります。

感想

思ったより長くなってしまったので、とりあえずこの程度で・・・ ”幸せになる勇気”は今作も読み物としても面白いです。 しかしながら、青年の口調が以前にもまして激しく、ときには罵るようなものであるため、人によっては抵抗感を感じるかもしれません。 しかし、そのような議論のなかでありながらも、哲学者が青年とともに学ぼうと対話を進めていく姿勢そのものが、我々が学ぶべき姿のように思えます。

もし、前作を読んでいない場合には、ぜひ前作から読み始めて欲しいです。 今作だけでもある程度内容を理解することはかのうですが、やはり前作の知識ありきの内容となっています。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

【影響力の正体】恩義とLINE既読スルー【書評・レビュー】

影響力の正体

人の心を操る心理学について興味があったので、下記の本を読み始めた。 詳しくは知らないが、Amazonの評価を見る限りは名著ではあるようだ。 こういった、Amazonの評価に踊らされる私も、この本に書かれた影響力の心理学で語ることができる。

影響力の正体 説得のカラクリを心理学があばく

影響力の正体 説得のカラクリを心理学があばく

まだまだ読んでいる途中ではあるが、読み進めながら気づいたことを書いていきたい。

恩義―譲り合いに潜むワナ―

人は誰かから恩を受けたら返さずにはいられない。これは社会的な利益を最大限にするための作用でもある。 まっとうな教育を受けていいば、人の親切には必ず答え、プレゼントされたならば同じようにお返しをするのが礼儀だと教えられる。

つまりなんであれプレゼントを受け取ると、返すまでは心に”恩を返さなければいけない”というしこりが必ずできる。 本では、この恩義を利用した募金活動や営業活動を紹介しているが、ここでは割愛する。

これは人間の根源的な部分に作用するもので、様々な活動においてその作用が利用されている。 ただし、これは私達がその行為について無防備な場合において有効であり、ある程度その行為の目的や問題、対策がわかっていれば、心のしこりを残すことなく対策することが可能である。 (本文中では、ある教団の募金活動ついて事例が載っている。最初は有効だった手段も、その手立てが一般に認知されて対策されることで活動の効果は小さくなってしまった。)

一方的な恩義

この恩義の作用として最もやっかい?な面が、自分が望まない恩義であったとしも返さなければいけないと思うことである。 つまり、相手が一方的にジュースをおごってきたとして、自分も何かしらの形でその恩を返さなければいけないと思うのである。

大事なのは、このルールはときに不公平な取引を引き起こすことだ。 ジュースを奢るのは相手が勝手に押し付けてきたもので、そのあとに見返りを求めるのも相手の勝手である。 しかし、先に恩義を受け取ってしまうと、そのあとの要求には答えざる得なくなるのが人の心である。

本のなかでは次のようにも書かれえています。

恩義のルールを守らず、相手からしてもらうだけで何も返そうとしない人は、仲間内でも酷く嫌われるものです。

LINEと恩義

このことを読んでいて思いついたのがLINEのことである。 LINEでは、相手がメッセージを読んだことが分かる既読機能が付いている。

近年では、この既読も発端となって、相手が既読をつけながらも返信しない行為を”既読スルー”として、その相手をひどく糾弾するようになった。 そして、”既読スルー”は友人関係をこじらせるだけでなく、いじめなどの集団での暴力にも発展するようにもなった。

これは、”送ったものを返さない”、恩義に反する行為として捉えられるため、ここまで深刻な問題となっていると思われる

  • 送った側は、相手が返さないことでフラストレーションがたまる。
  • 送られた側は、返さなければいけないプレッシャーでフラストレーションがたまる。

送られた側は、(勝手に送りつけられた場合でも)返さなければいけないプレッシャーに襲われ、場合にはよってはさらに返事を送ることが億劫になる。 送った側は、(勝手に送った場合でも)相手が返さないことに不満を覚え、相手に対する嫌悪感をますます増大させる。

LINEによって、時間と場所を問わずいつでも連絡が可能になったことで、このような恩義のプレッシャーとフラストレーションに常に晒されている。

LINEと他の連絡手段の違い

前述したように、LINEでは時間と場所をほとんど問わない。 相手が電話の先にすぐ入るような感覚になり、相手がすぐ返事をすべきだと考えるようになってしまう。

手紙は作成と送付に時間がかかることから、すぐには返事を求めない。 メールに関しては、LINEとほぼ状況が変わらないが、なるべく早い返事が求められる。

LINEとメールの違いは、そのインスタンス性だと思う。

メールの場合

メールは手紙が発展した形であり、大抵の場合、相手→自分→相手・・・と交互に発言がやり取りされる。 そしてお互いの発言も、一通である程度目的もはっきりしていて完結している。 そして、もともとが手紙であり、返信に求められる時間にはある程度ゆとりが認められている。 もともと長くかかっていたのが短くなったのだから、反応の時間への許容範囲も大きいだろう。

LINEの場合

LINEはどちらかというと会話の発展形だろう。 2人でも多人数でも、LINEというツールで同時に発言を共有でき、短いメッセージでやり取りされる。 他愛もない会話に利用されることがほとんどで、発言の順番もなく一方的でも構わない。 そして、会話に近いため、発言への反応が即座に求められる。 もともと即座に反応がもらえると思っているものなので、反応の時間の許容範囲もかなり短い

これがLINEに対して極端なぐらい即座に反応を求める理由かと思う。

LINEに対する社会の反応の変化

LINEが普及した当時は既読スルーがすごく話題になっていた。 しかし、近年になるとそれほど話題には登らなくなってきたように思える。(あくまで主観的な感想)

これは社会がLINEにどう対応すべきか模索して、その結果が現れてきた結果のように思える。 LINEの既読スルー問題への反応は様々だが、多くの人がその問題に辟易していた。 そして、既読スルーすべきでないと考えていた人たちも、既読後の返信の強要が、多くの人を苦しめていると少なからず理解したのだと考えられる。

結果として、LINEでメッセージを送ることの”恩義の重さ”が変化して、当初よりも軽くなったのではないか。 返さなくてもしかたない、返されなくても問題ない、そういう捉え方が増えていったのではないか。

前述した教団の募金活動への対策と同様に、LINEへの対応も社会的に進んでいるのだと考えられる。

恩義って怖い・・・

恩義のルールは、社会を豊かにするためにも欠かせないものだ。 しかし、そのルールは思わぬところにも潜んでおり、我々は無意識にルールに縛られる。

物でなくても気持ちや言葉、行為など、一方的なものであっても返さなければいけないプレッシーは大きい。 我々は恩義を返すべき相手を間違わないように気をつける必要がある。